カズシン・ブログ

カズシン株式会社 代表取締役 山内和美のブログ
不動産業界20年を超えて、この経験に基づく…取引のこと、物件のこと、人間のこと。
宅地建物取引業者(不動産業者)カズシンの代表 山内和美が思うこと。

匿名の恐怖。SNSは危ないと思います

2020.08.15

少し前に起きた事件のこと。

身体が動かない病気に罹って「死」を望まれた女性とSNSで知り合った医者。女性の家を訪問し、医者が女性を死に至らしめたそうです。

 

誰にも二面性があり、今回の男性にも二面性があったとして。

今回、この事件を起こしたことを想像すると、この男性にとっては、SNSの世界でのつながりによる実感の方が現実の世界よりも現実感が持てたのかもしれないと思うのです。

SNSで人と知り合い、励ましあい、情報共有することが当たり前の時代になってきています。SNSの世界は現実の世界を補完するには使い方次第で役に立つところもあるように思いますが、SNSの深みに入り込んでしまうと、現実よりもSNSの世界の方がより高度で理想的な感覚にも陥り、急激にSNSの力に捕まってしまうものかもしれません。

 

では、SNSについて。

SNSは匿名性を許容します。SNSの世界に入り込むということは、匿名の人間を受け入れ、自らも匿名の人間に変身していく過程で非現実が現実にとって代わる危険性があると思います。

 

インターネットなしでは暮らせなくなって、ネットでニュースを見たり、ネットの記事を読んだりします。

記事によっては、それらにコメントが付いているので、コメント(匿名)も読んでみたことがありますが。

最初の方で書かれているコメントと終わりの方で書かれているコメントを読むと、明らかに文章量や語彙や理屈の組み立てに差があることに気が付きます。

早いうちのコメントには説得力があります。

 

しかし、どのようなコメントも匿名であるコメントには責任が発生しない分、信用しきれない何かが残ります。

 

コメントを読むと、その人の言いたいこと、意見がわかるというよりも、むしろその人が「気づいている」ことが何であり、何に「気づいていない」のかが透けて見えるような気がします。

 

その人が気づいていることにこちらも気がついていれば、そこが接点となり、理屈も近寄ることがあります。相手が気づいていないけどこちらは気づいていたり、反対にこちらは気づいていないけど相手が言っていることなどがあると、反論したくなったりするものでしょう。

 

人はみんなそれぞれ違います。経験が違えば、気づきも違います。それぞれの経験において、気づいたこと、そして気づかないことを組み合わせて、コメントになるのでしょう。

私が書いているこのブログもそういう意味では、同じでしょう。私が気づいていること、気づいていないことが、読んでいただいている方には透けて見えていることでしょう。

 

コロナで自宅学習となっていた娘。高校が再開してから日も経過し、ようやく落ち着いたようです。

高校再開の頃、塾に申し込みました。

学校と塾、2つも行くところができて、元気に通っています。(高校は今は夏休みですが。)

毎日が生き生きしてきたようです。

 

自宅学習の時、多くの子供たち(生徒)は、自室で自分のスマホを使ってSNSをしていたことでしょう。

いろいろな事件が起こりました。

疑うべき経験の量が足りない子供たちは、危険な目に遭います。

大人になっても同様です。疑うべきところを疑えない(疑うことの正当さを知らない)、多くの人が命に関わり、財産を無くします。

 

コロナの影響か、治安がわるくなっているように感じます。

 

匿名の人には気をつけるべきでしょう。

SNSでどれほど良いコメントがあったとしても、SNSで知り合った人がどれほど親切な良い人に思えたとしても。

匿名ゆえに、その人の主たる面が逆転し、従たる面が表に出ているだけかもしれません。

 

どのようなわるい人であっても、いいところはあります。

どれほど残虐な人でも、自分の身内や気にいった人、愛する異性や長い付き合いの友達などには優しい人もいるようです。

 

鬼平犯科帳の主役の「半蔵」は、元・悪(もとワル)です。

だからなのでしょうか、悪党にも容赦しない厳しさを持っています。

 

自分が悪だったから、悪の気持ちがわかるのでしょう。寛容にしていい悪と容赦するべきでない悪の違いがわかるのでしょう。

 

SNSには、悪が隠れています。

悪を見抜けない子供や、大人になっていない生徒、大人になっていても経験が浅い社会人、十分な年齢に達していても騙されやすい人たちは、SNSで被害に遭わないように気を付けるべきでしょう。

 

鬼平犯科帳、今、3巻目ですが、あまりペースがあがりません。

私は、本を読むのは一気読みで、短時間で通読してしまうタイプだったのですが。

どうも、小説「鬼平犯科帳」のような読み物に対しては、ゆっくりみたいです。

 

鬼平犯科帳好きの人たちの話では、あれよ、あれよの間に全部読めたみたいですが、私の場合は、ちょっと時間がかかりそうです。

 

鬼平犯科帳を置いて、違う本を読んだりしています。

買った本は読む、すぐに読む、最後まで読む、一気に読む傾向が強かったのですが、「罪と罰(2度目)」(ドストエフスキー)、「鬼平犯科帳」(池波正太郎)は、そういう感じではないです。

小説として出来が良すぎるので、私にとってはひっかかりとなり、一時停止の部分が生じるのかもしれません。

それとも、小説を読むには、私は年をとったのかもしれません。

 

母は、昔はよく本を読んでいましたが、年をとりだんだん本を読むのが億劫になったそうです。

名作(小説)は、DVDで映画になったものを借りて見るようになったそうです。

 

「読む」から「見る」へ。年齢というのは、そういう変化を引き起こすものなのでしょう。

年齢だけではなく、もともと、読書より映像を見る方を好む方も多いでしょう。

 

読むのが好き、見るのが好き。人の好みは、分かれるでしょうか。

もちろん、読むのも見るのも両方好きな方もおられることでしょう。

 

皆さんは、本を読みますか? それとも、映画を見る方が好きですか?

 

カズシン株式会社

代表取締役 山内和美