カズシン・ブログ

カズシン株式会社 代表取締役 山内和美のブログ
不動産業界20年を超えて、この経験に基づく…取引のこと、物件のこと、人間のこと。
宅地建物取引業者(不動産業者)カズシンの代表 山内和美が思うこと。

中国の不動産会社。バブルの終焉。日本のバブル当時。不動産投資について。

2021.10.04

中国の不動産会社が破綻の危機にあり、とうとう不動産バブルが終焉している模様です。

昭和の終わりに大きく膨み、平成に入り間もなくはじけた日本の不動産バブルと比較されることがあるようですが、日本の当時の不動産バブルが崩壊してからすでに30年もの時が経過しています。

したがって、刻一刻と世界、世の中は変化していることを鑑みれば、「30年遅れてやってきた中国の不動産バブル」という括りで、日本の当時のバブルと比較してみても見えてこないものがあるような気がいたします。

たしかに、日本の経済成長があり、中国はそれらから遅れており、追いつく追い越すにあたり、なぞらえてきた面はあるのだろうと思います。不動産価格の高騰が顕著であった点などから、似た結末を予感させるところもあるでしょうが、日本が辿ってきたのと同じ道を辿ることになるとも思いづらいです。中国国内においては、後処理に費やされる膨大な体力と避けがたい時間があるのでしょうが、今なお当時のバブル崩壊を引きずっているような日本国内と同じ道を辿るとも言い難い気がするのです。

破綻の危機にある中国の不動産会社のマンションに投資をした中国人が、状況を知りショックで泣き崩れる様子を写すニュースが流れます。日本のバブルがはじけた時にも、阿鼻叫喚がありました。

一般の人が住まいを購入できるレベルをはるかに超えて不動産価格が上昇し、投機対象となった不動産がさらに高値で取引されている様が日本の経済成長とリンクし、バブルの終わりが忍び足で近づいているその危機的な状況にあってなお、人々は、さらに熱狂していました。熱狂の渦の中でバブルがはじけたのですから、渦中に取り残された人々の苦しみは想像を絶するものがあったと思います。

バブルは急にはじけるものとするのも一説ですが、弾ける前には予兆があり、理屈では成り立たない状況ですから冷静でいられれば、「いつまでもこのようなことが続くはずがない」ことはわかりそうなものです。しかし、問題は、人は、それがわからないということです。わからないのが人間であり、わからないからこそ、落とし穴に落ちてしまうものでしょう。

今回の中国での問題も、人間が落とし穴に落ちてしまったという見方からすれば、同じだと思います。ただし、日本の当時のバブル崩壊から30年が経過し、その時から、世界は進んでいるわけです。参考となる例(たとえば日本の当時のバブル崩壊)があれば、対処方法も増えるでしょう。中国自身が、今後どのように、どの道を進みたいと考えているかにもよるでしょう。

中国の不動産会社が動かしたお金の規模は大きく、当然、影響は出るでしょう。中国国内ばかりでなく、世界にその影響は及ぶだろうと、私は思います。直接的な影響は限定的であったとしても、影響は大きいと思うのです。

一方、日本の当時のバブル崩壊と同じ苦しみの長引く経過を中国も辿るのでしょうか。処理の方法には差異が見られるでしょうから、中国の未来が日本の過去に似たものになるとしても、同じになるとも思えないのです。似たようなことはあり、似たようなことにもなるとしても、舵を取る方向が違えば、とるべく過程も異なるでしょうから。

日本の当時のバブル崩壊では、ある意味、その時点においては「一億総中流」を守るために、規制をかけた面がありました。一般の人の年収では手が届かなくなった住宅価格を適正に戻すことが一つの基準とされたところもあり、不動産投機を締めあげたわけです。総量規制(不動産に対する融資の規制)がきっかけとなり、買い手のいなくなった不動産を抱え込んでいた不動産会社、企業や国民の多くがなすすべなく追い詰められていったのです。

貧富の差が顕著となり問題としている中国において、投機対象となり高くなりすぎた中国の不動産価格にメスを入れているとしても、日本の方向性とは異なる気がしています。日本はバブル崩壊から立ち直ろうとして、方向性として貧富の差を広げてきているように感じます。中国は、どのような道を辿るのでしょうか。

日本においては、一億総中流が終わり、不況の中で、富裕な人と困窮する人の二極化につながっている。それが今の日本の現状だと思います。中間層の人が困窮に近づき、一部の富裕な人と、不足する人に分かれる(分けられた)姿は、当時のバブル崩壊を経て、経済の立て直しを図る過程において、日本が徐々に、そして断固としてとってきた政策なのだろうと思えます。

自分がどのポジションにいるかで与えられる恩恵に大きな差異がある事実に早くに気づいた人は、恩恵にあずかり、気づかなかった人は、打つ手がなくなった状況において途方に暮れる。賽は投げられていたわけですが、投げられていたことがわかった時点で、すでに勝敗は決まっている。そういうレースであったような気がします。

日本の向かう先がようやくイメージできて、日本の将来を思う時、そして中国の不動産会社のニュースなども合わせて考えてみた時、日本の不動産がどうなるのかを想像するならば。やはり、これまで通り、東京など一部の不動産は投資対象として経済活動を支えていくのだろうという気がします。東京などの日本の不動産の価値は、外国から見ても安定しているだろうと思います。日本人自身にとっても、不動産を持ちたいという需要は強く、できることならば不動産投資をしたいという感覚は強いと思われます。

住まいとして中心地で不動産を所有できる人は、仮に今後一層限られてくるとしても、投資対象としては依然力を発揮するように思います。採算が合わないところまで高値になってしまった不動産は、反転することはあったとしても、平均的な所得の日本人が痛みなくリスクなく不動産を所有できる時代は、過去のものになりつつあるのかもしれません。多くの人が自分の住まいを希望に近い場所で獲得できる方向を目指して進む流れが、もはや想定されていないとするならば、一部の不動産に限られるとしても需要が強い場所の不動産の価格は、今後も下がらないような気がします。場所が同じでも人気、不人気の物件はありますので、人気の物件について言えばとくに、価値は維持されていくだろうと思います。

ただし、採算や利回りが合わない価格での高値の取引は、コロナショックを含めた情勢に応じて、警戒され、制限されていくだろうと思います。

「上がりすぎたものは下がる」という法則は、例外とはならず、今回も適用されるだろうと思います。

すでにその価格では採算がとれない「上がりすぎた」価格の物件は、いずれ一旦調整され、適正価格での取引で落ち着くのだろうと考えています。

コロナショックにより、売りに出ている物件が依然高く取引が成立する価格ではない状態が続いていますが、売る必要があり、債務者債権者ともに検討が続いている物件に関して言えば、金融機関の支援の方向性が変わってくれば、市場で取引が成立する適正価格(上限一杯であるにしても)まで下がるように思うのです。

そうした物件を探している方は、「時期がくるのを待つ」のも一つの考え方でしょう。ただし、希望の通り、買うのにいい条件で物件が出るということは少なく、売主様も金融機関も練りに練ったうえでの適正価格となるでしょうから、それより下で買いたいという話ではなかなか難しいように思われます。

「今買うのは得策ではない」というのは一理あると、私も思います。しかし、投資したい方の多くが時期を見ているでしょうから、今ある物件の中で適正価格に近いところで取得できる物件に出会えれば、購入するのもいいのではないでしょうか。ただ、そういう物件は少ないでしょうから、出会えなければ時期を待つしかない、焦らず時期がくるのを待った方がいい場合もあるとは言えそうです。

今売りに出ている物件が、しばらくすれば、ある程度の年月の中で、適正価格になって再度市場に出てくる、一部そういう流れを予想しています。

短期間で処理する(処理できる)企業や個人もいるでしょうが、時間を味方につけて、時間をかけて問題解決を模索する、中でも法人(企業)はそちらの道を選択するのではないかと思います。可能な限り。たとえ、それが問題の先送りにしかならないケースもあるとしても。

企業や個人の属性や、物件ごとにも、扱いや出方は違うでしょうが、コロナショックは軽微のショックで終わる(済んだ)とは私は思っていなくて、コロナウィルスこのパンデミックが遠く感じられる頃まで、実態としては痛みが継続していくのだろうと思うのです。

しかし、痛みが大きかった法人個人、立ち直りが難しい局面に立たされた法人個人の数は少なくないとしても限定的であり、該当しない多くの人は、何事もなかったかのように日常を再開することになるのでしょう。(第6波の懸念を持ちつつも。)そうして人々が日常に戻った時、戻れなくなっている人や企業がコロナショックによって道を絶たれたことが明らかになるのでしょう。残酷な現実としても、そのように気がつくと、コロナショックを逃げ切れなかった、一部の分けられた企業と個人が再生、再建の道のりを歯をくいしばって歩むことになるのではないでしょうか。歯をくいしばって歩む先に、希望の解放のゴールがある人も、本意に反する解決がある人もいるでしょう。

賽はすでに投げられているとすれば、ひっくり返すことはできず、自分が今いるポジションから動くことはもはや不可能。とくに、不動産に関して言えば、大きなことをしていたり大きく動かしているほど、状況の一変を無傷でやり過ごせる人は少なく、大きなダメージを負いがちであると思います。

不動産において、自分自身で保有ができない状況での買い手の不在ほど怖いものはないでしょう。買い手探しに奔走することになるわけですが、状況が一変していれば、その買い手が現れないのです。

市場やある程度水面下でも、買い手探しのために出ている物件は多数ありますが、採算や利回りが合わなければスルーされます。コロナショックにより、不動産価格全体が大きく下落するということは私はないと思っていますが、売らなくてはならない物件が買い手の買っていいと思う価格まで下がり取引される。そうでなくては買う人もいません。それぞれの物件がいつどのように買い手の手に届くかは、およそ個人レベルではわからないものでしょうが、不動産の買い方が上手な人は、そこのところの見定めができているのでしょう。

「不動産の値段がわかる」ということです。高い時期であっても下がっている時期であっても、その「不動産の値段」が判断できる人は、大きな失敗をしづらいように思います。不動産の値段をどう付けるかは、個々の感覚、あるいは時流によるところがありますが、その人特有のコンピュータが出す答えだと思います。それらをわかりやすく言えば「目利き」と言うのでしょうが、不動産業者だからと言って、全員が目利きができるわけでもないでしょう。だから、大きな波の後、たくさんの不動産会社が破綻するわけです。目利きはあった(値段はわかっていた)が、買うしかなかったというケースもあるでしょうが、結論としての明暗が、突き詰めて言えば、目利き力の差ということも言えなくもない。それほど厳しいのが不動産投資ではないかと思います。

大きな数字の話は、大きな会社や特別な情報が得られる方々でなければ勝てない領域であり、個人や個人に近いところでは、勝つことは万に一つの賭けのようなもの。特別な情報が得られないポジションにいる限りは、いずれの投資も、ケガをしても起き上がれる程度にしておくのが、私は得策だと思っています。

不動産であれば、高額な投資ではなく、小さな物件をコツコツ買うとか、値動きの大きな株を売り買いするのではなく利益は少なくても安定した値動きの投資信託を続ける、など。大きな資本や特別な人たちは旨味が少なくてわざわざ入ってこない範囲において、自分が負えるリスクとの相談をしながらやってみるくらいがちょうどいい。投資というものは、個人にとっては、そのようなものではないかと私は思っています。

数字の大きい小さいは人によって差があるところで、いくらまでならとか、どの物件なら、ということは一概には言えません。感覚の話になりますが、自分にとっては大きいように思われたならきっぱり見送るという方針も有効かもしれません。ある程度まとまった、ある程度以上の大きさで投資をしないと、当然利益も少額となりがちなのですが、破綻するリスクを考慮するならば、冒険するばかりが勇気とも言えないでしょう。特別な情報などが入らない個人のレベルでは、冒険がすなわち失敗につながるケースは少なくないような気がします。

不動産会社も同様です。一部の会社は違うとしても、小さなところ(当社も含めて)が思い付いて賭けをして、それで勝てるような市場ではないでしょう。冷静に見てみれば、利益を得ている人、儲けている人(法人も)がなぜそれが可能であったのか、わかるのではないでしょうか。有利な人が利益を得、不利な人はその土俵では勝つことは最初から無理な話でしょう。無理な話ですが、あえてそれをわからせないでこそ、有利な人が勝つ結末がくるのですから、なおのこと、自分の土俵はどこにあるのか、ちょうど良い場所を探す必要があるように思います。ちょうど良い場所、たとえば儲けが少ない話には、資産のある人や特別な人たちはわざわざやってきません。その範囲に留まるのであれば、そして小さくても良ければ、勝つ(負けない)道はそれぞれに残されているように感じます。資産を持たない個人等がたとえば勝負をするとしても、そうした範囲において力を発揮するのであり、買っても負けてもそれほど大きな話にはならない、その範囲内でのことに留まるように思います。

おもしろくはないでしょうが、投資がそもそもそんなにおもしろおかしく勝てるはずはないと思います。中には特別な才能のある人がいることを否定しませんが、才能と結びつく幸運もあったのではないでしょうか。

運不運によるものは、私は、人が目指していく道にあるものだと考えていません。運や不運は落ちているものでもなければ拾えるものでもないとすれば、それは、「結果的に」の話であって、スタート時に志向する材料ではないと思います。

2018年の2月からブログを4年近く書いてきて、角度や観点は違っても、不動産投資に対しての考え方はいつも同じ結論になります。不動産投資や不動産の価格についての意見も、話の展開による切り口は多少異なっても、軸は決まっています。

ここまでずっと読んできていただけている方がおられましたら、「いつも同じ結論」を述べている私のブログの特長に気づいておられることでしょう。何をどうしても、時期が違っていても、どういうところから話を始めても、不動産に対する考え方が同じになるということ。この同じであるところが、私の考えであり、不動産に対する私の固有の見方となります。

結論が同じであっても、切り口が異なるところはあるので、少しは参考になるところもあるのではないかと思い、こうして書いています。そして、このブログを書くことは、私自身の不動産に対する見方を再確認する意味もありそうです。

皆さんは、どのように不動産について、不動産投資についてお考えですか。

私と似ている方もいるでしょうか。また、似ていない方もいるでしょうか。

ご自身の中にあるコンピュータにより、似ていたり、似ていなかったりするのでしょうか。

私のコンピュータは、「不動産投資はほどほどに」と語りかけます。そして、自分でも「値段」がわからないものは買わないこと、これが最悪を避ける方法になるのではないかと、私の耳にささやきます。

値段がわからないで不動産投資をして勝てる見込みは、おそらく、ほぼ無いと私は思っています。値段の付け方はいくつかあるとしても、自分の値付けははずさない、そういう、不動産に対する強みは必要でしょう。

勉強したからといって身に付くものとも言えないでしょうが、値段を読み間違えて勝てることは無い。そこははっきりしていると思います。不動産の価格の高い安いが起こるのは、自分の力ではどうにもなりませんが、なぜ高いかなぜ安いかを理解することは、自分の考え方や日々の努力によって見えてくることはあるように思います。

 

ところで、このところ、私は秋の花粉症です。ひどくなったので、昨日薬を飲みました。飲んですぐに効果が出ました。そこから、ずいぶん楽になりました。よく効く薬は、効果が早いものだと驚きます。半面、眠気がすごくて、飲むのを躊躇しそうです。

薬とはそのようなものでしょうが、投資は、即効で希望が叶うようなことはなく、かえって危ないと思います。冷静な頭脳で、地道にパズルを解き、あるいは将棋の駒を動かしながら手を読む。そういう思考が必要でしょう。薬に頼れない分、投資は、個人の努力がプラスに働くこともあるということでしょう。だからこそ、不動産投資は多くの人の興味を引き、市場も形成されているのでしょう。

実需物件は投資物件とは異なりますが、市場において混ざり合います。実需物件ばかりではなく、不動産投資が一般の国民には手が出せなかった時代と異なり、今は投資物件で一般の方々が競争している市場もあります。一般の方が参入してくれば、不動産業者との競合も起こり、価格の変化も起こります。セミプロのような方も増えています。平均的な不動産業者より知識や経験をお持ちの方も多数おられることでしょう。

実需物件(自分で住む家)を買うのが一般の方、投資物件等は不動産業者や企業(法人)が買う、という分け方ではなく、実需物件しか買わない人と投資物件を買う人に分かれているのだと思います。

株が好きな方がいるように、不動産投資が好きな方がいる。そうした状況の中で、個人客を中心にした不動産業者も、投資用不動産として物件を顧客に紹介する、そうした一つの大きな市場が整備されつつあります。

そのことの良し悪しは置いておくとしても、不動産が一般の方による投資のために買われる(あるいは売られる)という仕組みができあがってきた現状において、不動産投資は身近なものとなっています。目利きができれば成功する可能性はあり、目利きが弱ければ失敗する可能性は大きいでしょう。目利きができたとして、あとは、どの市場で戦うかでしょう。目利きを生かして、自分だからこそ勝てそうな市場が見つかれば、不動産投資を楽しみながら続けることもできるのではないでしょうか。

「小さくやるか大きくやるか」とよく言われることですが、私は、大きくやるならその分リスクを承知でやるのでしょうからそういう手法もあると思いますが、あまり自信を持てない人は小さくやるのがいいと思います。投資は、自分がそのリスクを負えると思うところまで、だと考えるからです。

皆さんは、いかがお考えでしょうか。

 

カズシン株式会社

代表取締役 山内和美