カズシン・ブログ

カズシン株式会社 代表取締役 山内和美のブログ
不動産業界20年を超えて、この経験に基づく…取引のこと、物件のこと、人間のこと。
宅地建物取引業者(不動産業者)カズシンの代表 山内和美が思うこと。

仏教

2020.12.07

この年齢において、私はとくに信仰を持っていません。信じている宗教がありません。

 

私は2つ大学へ行き、そのうち1つを中退し、1つを卒業しています。

最初に入学した大学は、関西学院大学です。

キリスト教の大学です。キリスト教の大学だから選んだわけではありません。文学部に入りました。

その時、『キリスト教学』の講義を受講したことがあります。

 

講義中にお祈りがありました。「今日ここへ来ることができない学生」に対しても、神が支えてくださるよう、お祈りしました。

 

「この講義をとりながら今日ここへ来れない」学生のためにも祈るなかで、私は何らかの違和感のような感情が生じたような気がします。

今日ここへ来ている私と、今日ここへ来れない学生の間に、それほど大きな違いはないと感じていたからでしょうか。それとも、違いに気づいた感情だったのでしょうか。今は、もうわかりません。

 

また、関西学院大学の時『座禅』の講義を受講したこともあります。座るのですが、その時の私には、向きませんでした。

 

キリスト教徒になったわけでもなく、仏教に救いを求めたわけでもないまま、この年齢に至りました。

 

ただし、大昔小学生の頃、近所の『日曜学校』へ行っていました。私の家は、キリスト教に縁はなかったのですが、子供たちは行けば頂けるお菓子を目当てに、キリストに祈りを捧げました。

 

小学校の時の『日曜学校』、大学での『キリスト教学』、また挫折した『座禅』など、いくらかは私に宗教的な何か、信仰の芽を残しているのかもしれませんが、目に見える花は咲かず、神も仏も、信じる日々は過ごさず今日までを生きてきました。

また、幼稚園がお寺に併設されていたと記憶しています。しかし、お寺のことは何もなくて、普通の幼稚園としての感じが残っています。

一年間しか通っていませんが、気づかぬところで何か影響があったでしょうか。

 

これから先はどうなのでしょうか。

 

母と一緒に時々東京散策しています。コロナウィルスを気にして、このところお休みしていますが、楽しいものです。

 

目黒へ行った時、五百羅漢(らかん)寺へ行きました。

羅漢とは、釈迦のお弟子さんで修業を積んだ僧のことを言うようです。

本堂では、たくさんの羅漢さんたちの像の中心に、お釈迦様の大きな像があります。

そこでは、仏陀が羅漢さんたちに説いた説法が流れています。

 

母と椅子に腰かけて、説法を聞きました。

 

流れるように、お釈迦様の言葉が自分の身体を巡り、有難い思いがしました。

 

年齢をとったからでしょうか。これからの年月、どうやら、私は、おそらく仏教の教えを知ろうとするかもしれません。

 

中学、高校、一度目の大学(関西学院大学)を中退し一時的に実家に帰った時、二度目の大学生(東京・早稲田大学)の時。これらの時、おおむね4回、集中して本を読んだ時期があります。

読んだ本は手元に残さず基本的にすべて処分をしてきましたので、何の本を読んだのか覚えていない本もたくさんあります。

 

大まかで言えば、中学二年生の頃に『日本文学全集』、高校二年生の頃に『世界文学全集』、大学中退した時に、高校生の時に読んでいなかった『世界文学全集』の残り。これら、日本文学全集と世界文学全集は、実家にあったものです。

元々、実家にあった『世界文学全集』は全集のすべてではありませんでしたが、あったものはおよそ読んだと思います。

 

二度目の大学、一・二年生の頃だったと思います。『岩波文庫』(世界の哲学等)を買って読みました。

 

読書体験としては、上記の主だった4回に読んだ本が、私の知らないところで私に影響を与えていると思います。

 

社会人となってから読んだ本もあります。

学生時代のように集中してたくさん読んだわけではありませんが、時々の興味で。中には「いいな」と思う本もあったことでしょう。

しかし、社会人になってからの読書は、それほど、私に大きな影響は与えていないかもしれません。

ただ、少なくとも一つか、二つのことには影響を受けて、カバーされるか、混ざって、今日の私が思うことになっているかもしれません。

 

私の本棚には、ほとんど本はありません。今も本は残しません。

 

物(本も含めて)を残す、という考えや習慣がないため、本は読めばそれで満足してしまいます。

何の本を読んだとしても同じです。いずれも私の血肉になっていてくれるのかもしれませんが、今なお自分が読んだことを記億している本は限られており、覚えている内容はわずかです。

それでいいと思います。他人の書いた本は、有難く読ませていただきましたが、どのようなものであったかは、忘れっぽい私の記憶には残りません。それでも、その時々、私は何かを読んで、何かを学んだり、考えたり、感じたりしてきたことでしょう。

 

今日の私は、もう本を読みたいとは思いません。

一生分読んだと言えるほど本を読んだわけではないですが、人生は有限であり、私の寿命は限られています。

 

これから読む本があるとすれば、仏教について理解できるような本がしっくりくるような気がしています。

 

そう思うのは、今日のことであって、明日から先のことはわかりません。

 

皆さんは、今日、何を思いますか?

 

カズシン株式会社

代表取締役 山内和美