カズシン・ブログ

カズシン株式会社 代表取締役 山内和美のブログ
不動産業界20年を超えて、この経験に基づく…取引のこと、物件のこと、人間のこと。
宅地建物取引業者(不動産業者)カズシンの代表 山内和美が思うこと。

不条理、理不尽について

2019.12.04

言葉の定義は、「不条理」と「理不尽」では異なるのでしょうが。

とくに追求しないで、今回は「不条理」で一括りするとします。

 

世の中や人間や出来事など、すべてのことに道理があり、法則があるように感じます。

突拍子もないことは起こらないし、突拍子もないことが起こるとしたらそれは実は常識の延長であるということもあるのでしょうか。

「人はすべて自分の意思で選択している」という見方があります(先日のブログ「君の膵臓(すいぞう)をたべたい」の中でも書いています)。自分の意思で選択しているからここに至るための道筋がもともとあって、だからこそここで「あなた」と「あの人」は出会うことになった。出会うようになっていたのは必然というような見方です。運命のような見方もできそうですが、仮にそれを運命と名付けるとしても、それまでの人生における己の「選択の結果」起こるべきして起こったこと。このような考え方に立つと、「不条理」に遭遇、翻弄され、犠牲になった、「理不尽」に傷つけられた場合、どのようにして人は自分を納得させることができるのでしょうか。

自分の意思で選択した結果「不条理」に出会うということがあるのでしょうか。私は、「不条理」は選択しうるものではないと思います。

選択と選択の狭間(ニッチ)に落ちてしまうのが、「不条理」の穴ではないでしょうか。

 

飲みすぎて深夜一人で歩くと危険が増すのは事実でしょう。また、犯罪者が近くを逃走している最中は外出を控えるべきであるように、「不条理」を避けるために用心し慎重になることは「不条理」を回避するために有効である気がします。

 

お金持ちが犯罪や危険の少ないエリアで、セキュリティー万全の住まいに住むのは、「不条理」な目に遭わないためでもあるのではないでしょうか。

お金持ちや慎重な人たちは、「不条理」を回避するため、対策をとっています。しかし、対策をとったからといってすべての不条理が回避できるものでもないでしょう。対策をとらないよりもはるかに回避できるとしても。

まして、対策をとらず回避しない暮らしをしている(せざるを得ない)人たちは、「不条理」に合いやすくなるでしょう。

私もそうですが、大勢の方が「不条理」に合いやすい目にあう人生を生きているのかもしれません。

 

「あそこへ出かけよう」「家へ帰ろう」「会社へ行こう」「遊びに行こう」、「今日は家で寝ていよう」人が日々暮らす中で自分の意思で場所を移動し、目的地へと向かいます。

どこへも行かず家にいる時さえ、それはそれで「不条理」に不意につかまる。

 

(「君の膵臓(すいぞう)をたべたい」の小説を読んでいただければ、私のここで言わんとしていることがおわかりいただけると思います。)自分や自分の大切な人や物が奪われてしまう。

 

その「不条理」は自分の意思で選択したとは言い難いのではないでしょうか。しかし、とても悲しいことですが、自分の意思がありその意思に基づいて人間が行動を起こす時、その過程において、残酷なことですが「不条理」に不意につかまってしまうことがあるものでしょう。

不条理というのは、自分自身の意思ではコントロールできないものだと思います。

不条理な目に遭わないよう注意して暮らすことは用心深く、できればそのように暮らすのがいいと思います。

 

しかし、「不条理」な目に遭うというのは、避けることができたであろうと後になって思えば思われることでも、結論としては避けられなかった出来事になるのではないでしょうか。他人、自然、社会、世間、世論、身内等々、自分の周囲や環境がなすことを自分の意思ですべてコントロールすることはできません。

不条理は、他人、自然、社会、世論、身内等々が巻き起こす、それらに巻き込まれてしまった被害や犠牲の結果となるのではないでしょうか。

 

不条理な目に遭った時、必ずそこには不条理な何かを引き起こす原因があります。それは災害であったり、人間であったり、社会や環境であったり、いろいろ違うとしても。

 

不条理な目に遭わないよう自分の意思で選択がとれるある意味恵まれた人や運が良かった人であれば回避できたかもしれない。しかし、自分の意思で選択がとれない、とりづらい、仮にとれたとしてもそれはラッキーであり誰だってとれないようなことで、やはり回避は運不運によることもあるでしょう。

不条理な目に遭った人をさらに追い込む意見をきくことがありますが、心が痛みます。

自分がその同じ立場や同じような目に遭ったとしたら、という想像力を持たない人の意見は、厳しく心に刺さります。

 

世の中には法則があり、おそらく「不条理」にも何らかの道筋はあるのでしょうが、あったとしても事前にコントロールすることは難しかったのではないでしょうか。「あの時こうしておけば」「あの時出かけなければ」ということは結果として言えますが、不条理な目に遭うことが予測できていたら、きっとそうしたでしょうし、出かけなかったことでしょう。

人は自分の意思で人生を選択し、出会いを選択しているとして。不条理も自分の選択になるのでしょうか。

そうかもしれません、なるのかもしれません。あの日あそこへ行かなければ、あの日あそこに居なければ、起こらなかった不条理。しかし、人は不条理を自分の意思では選択していないでしょう。

 

こうなりたい自分、夢に向かっている自分、ネガティブになって閉じこもっている自分、そうしたことは、自分の人生の選択の連続の通過点に在る自分かもしれません。しかし、不条理は、向こうの選択です。向こうというのは、自然であったり、他者であったり、自分が選べない諸々。

 

したがって、不条理というものは、向こうの意思はあったとしても、こちらの意思ではない。だから、それを「不条理」というのだと思います。

 

人は悲しく弱いもの。だから人は誰だって「不条理」の穴に不意に落ちてしまう時があると思います。それが、人間というものではないでしょうか。

誰もが不意につかまってしまうのが「不条理」の正体だとすると、悲しみの中にいる人は他人事ではないと思われます。

 

カズシン株式会社

代表取締役 山内和美