カズシン・ブログ

不動産業界20年を越えて この経験に基づく~物件論

努力するということ

2018.06.24

人材紹介会社(有料職業紹介事業)を始めて、あちこちで「地頭が良い」という言葉を聞くようになりました。

たしかに「頭が良い。それも、もともと(生まれつき?)」というのは、仕事の能力に関係する部分があるのだと思います。

しかし、「頭が良い」ことは、「えらい」わけでもなく「えらい人」でもなく、「いい人」でもない、少なくともそれだけでは、と思われます。

子供の頃から「頭が良い」と褒められて育った子供は、おそらく自信も付くので、さらに上を目指して、時には上り詰めることもあるのでしょう。

頭が良い子を頭がわるいと親が決めつけたり、馬鹿にしたりすれば、実質は頭の良い子も、自信を持てず、本来持っている能力を発揮しづらい人生になるかもしれません。

そんなもので、「頭が良い」という言葉は、人を生かしも絶望させもする言葉だと思います。

私は、人間にとって大切で貴いことは、「頭が良いこと」ではなく、「努力すること」「努力ができること」だと思います。

努力ができない(努力をすることが向かない、困難な)人もいることでしょう。それでも、「努力」することが1つでもあると、生きる希望も増えるような気がしています。

努力をしているけれど、なかなか報われない人は、「自分は頭がわるいから」とは思わず、今自分がやっている努力を信じて、あきらめず、めげずに続けていけさえすれば、いずれその蓄積がパワーを発揮する日がくるのではないかと思います。

頭が良い人は、その頭の良さを過信せず、努力をすることの大切さを理解することができれば、ただ頭の良いだけの人で終わることなく、努力の力で、より大きくなって、人の役に立ち、豊かな人生が送れるのではないかと思います。

このように、私は、「努力」を軸に、人も物事も見るようになっているようです(そういう癖がいつからかどこからか付いたということでしょう)。しかし、この考え方も行き過ぎれば、苦しいほどの努力を人に強いる危険性もまた内包しているのではないかということに気づかされます。

私の価値観と、他人の価値観はまた異なっていいのでしょう。

ずっと昔、私が20歳になる前の10代の終盤、大学生の時、同じ年齢のある人と出会いました。その人は大学へは行っておらず、定職にも就いていませんでした。

日本では「文盲(日本語が読めない人)は、ほとんどいない」と言われていますが、その人は、ほとんどの漢字が読めませんでした。また、掛け算(九九も言えませんでした)・割り算ができませんでした。

足し算と引き算も十分ではなかったように思い出されます。

生まれてきた家の環境が大変厳しかったようで、勉強を落ち着いてするという経験がほとんどなかったようです。

その時、私は大学生で、「自分はこのように勉強をしているけれど、この人は漢字も読めなくて仕事でも苦労をしている。世の中不公平だ」と感じました。

そして、ゼミの先生に、このことを話したのを覚えています。「世の中は不公平だと思うのですが。先生はどのように思われますか?」といったニュアンスだったような気がします。

先生は、何も明確なことはおっしゃらなかったと思います。おそらく、答えをもっておられなかったのでしょう。

いま私がこのことを思い返して思うのは、「頭がいい」も「頭がわるい」も、そのこと自体に意味があるわけではなく、何かができるとか誰かの役に立てる、とか、自分自身が生きやすいとか、他人に優しくできるとか、なんだかそういうことが意味があることなのだと。

頭がいい人は世の中にたくさんいます。たいへん良い人もいます。しかし、だからと言って、そんなことに縛られるのは、時代遅れなことだと言えるそんな時代は、じつは、誰にとってもたすかる時代かもしれません。

高齢者になり認知症になる日が絶望の時とはならないですむように、人間の価値を「頭」をベースに測らないですむ時代が近づいてくるといいなと思います。

カズシン株式会社

代表取締役 山内和美