カズシン・ブログ

不動産業界20年を越えて この経験に基づく~物件論

罪と罰「どうして走らなかったんだろう」(走れるなら当然走っている、走れるわけない相手に)

2020.07.10

1/4のところで一旦休憩しているものの、ドストエフスキーの「罪と罰」は「物語」として「おもしろい」という感想を持ちます。

しかし、エンターテイメントとしてではなく、人間の真実を描いている場面があります。まざまざと情景が浮かび上がり「おもしろい」というような感情ではなく、もうあのページを読むことはつらすぎるという、私の心の中に刻んで二度と読まないつもりのとても悲しい場面です。

「走れない」(走らせない)ように重荷を背負わされているのに「走れ!!」といたぶられて虐待受けて打たれ続けてついに倒れて息をしなくなった動物に、「どうして走らなかったんだろうね」(走りさえすればあんな目に合わないですんだのに。「どうして走らなかったんだろう」という捻じ曲げ)、事の顛末を見届けている傍観者が言葉にする場面があります。

走ろうと踏ん張って足を一歩前に進めようとしてどれほど頑張っても、走ることは不可能であるから走らない(「走れない」)動物(相手)に対して、「走らない」ことの罰としていたぶることが目的になってしまう人間がいます。

この世の中、人間社会のいじめも虐待も同じだと思います。

「いじめられる方がわるい」という論理を支えているのは、走れなくしておきながら「走らない」ことを罰する人間や、悲惨な目に合っているのを余興のようにおもしろがったり、見て見ぬふりをしたくて「走らない」のがわるかった、とする外野(他人事)の人間たちの捻じ曲がった言い訳。欲求を発散させたり、火の粉が自分にかからぬように、「お互い様」で便利に使いあう慣習ではないでしょうか。

痛めつけられるから抵抗などできるわけもなく、ひたすら言われるがままに必死で何とかして走ろうとしているのに、走ろうとすればするほど、「走れない」目に合わせて、更なる「重荷」を負わせて鞭で打ち続ける、そいう性質が人間にはあるのでしょう。

いかに、そういう性質をそぎ落としていけるかが、人に課された宿題なのかもしれないと思います。

 

カズシン株式会社

代表取締役 山内和美