カズシン・ブログ

カズシン株式会社 代表取締役 山内和美のブログ
不動産業界20年を超えて、この経験に基づく…取引のこと、物件のこと、人間のこと。
宅地建物取引業者(不動産業者)カズシンの代表 山内和美が思うこと。

「騙される方が悪い」騙す側が言うこと

2019.12.29

「かぼちゃの馬車」(シェアハウス。スマートデイズ 旧スマートライフ)などの不動産投資や他金融商品への投資等、いろいろ「騙されてしまって」失敗したと感じることが世の中には多くあると思います。

騙されたと断定できずに『やももや』することも多いでしょう。相手は「騙した」と言わないから、余計に納得がいかない場合もあるでしょう。

では、相手は、「騙した」つもりが本当にないのでしょうか。

 

騙した側には、「騙している」つもりが最初からあると私は思っています。

 

でも、騙す方は騙すつもりがあることを知られると、もはや騙せないものですから。奪い取る目的を成就するため上手に誤魔化すことでしょう。

 

そして、いよいよ隠し通せなくなったり、開きなかった時、騙す人は、「騙される方が悪い」という決まり文句を言うのではないでしょうか。

 

人間ですから、誰だって「欲」はあると思います。「欲」の分量やその種類には異なるところがあったとしても、その人の欲がその「騙される」きっかけを引きつけているのだと思います。

欲ゆえに騙されたのだとして、騙された方は自分自身の「欲」の大きさに責任を求めなければならないのでしょうか。

 

たしかに、欲が少なければそれほど大きくは騙されなかったかもしれませんが、「騙される方が悪い」という理屈は、騙す側の言い訳だと思います。

また、欲の表裏には「相手に嫌われたくない」「困っている相手を助けてあげたい」というお人よしの優しさが一体となっていることもあります。

 

飲食店で、隣のテーブルにいた若い男性が電話で話しているのが聞こえました。金融商品を顧客のお年寄りに売りつけて儲けるやり方の話でした。「具体的で、その的を得た組み立て」に、世の中の騙すつもりの人たちはこのような考えと心持ちで、騙すつもりの人に近づいているのかと知る一つの出来事となりました。

 

人を騙さないと「ボロ儲け」はないと思っています。仮に騙さないで大儲けすることがあったとしても、それは一時的なものではないでしょうか。

お金はとても正直なもので、よくできたもので、まともなことをまともにちゃんとやっていると、そう大儲けするということは起こらないと思っています。だから、仮に、大儲け、ボロ儲けするということがあったとしても、一時的であり、やっぱり巡り巡って、いずれまた返ってきた時、そうした儲けは身についていないものではないかと思うのです。

 

才能や並々ならぬ努力で成り上がり、成功者として富を持つようになる人も稀にいるようですが、どこかで誰かや、あるいは自分自身の気持ちも含めて多少も「騙さない」で、その富を維持し続けることは、大変難しいものではないでしょうか。

中には、「騙さない」で富を発展させる人もいるのかもしれません。ただ、私自身がそのような人と知り合える身や境遇ではないためでしょうか、まだ今のところそのような完璧な人には、正しくは、出会ったことはない気がしています。

 

ボロ儲けしようと考えている人は、最初から、「騙す側」に立つことに抵抗がないのではないでしょうか。

 

顧客のお年寄りが金融商品を解約手続きしたにあたり、一旦は応じておくこととし、その後お年寄りの感情に揺さぶりをかけて同情心を起こさせ、あらためて別の投資をさせること。顧客の意思を尊重し一旦応じてみせることで、さらに信用させることも詰め込まれた「騙し」のパッケージというのは、こうして、世の中にたくさん出回っていることなのでしょう。

なにも「騙す」というようなところまでいかないところで、通常の営業ベースでも、信用させることはテクニックの一つとしてノウハウ化されていることでしょう。それ自体が、騙しということではないとしても。意図するところが騙すところである人にあたれば、その意図に巻き込まれてしまうとその意図通り被害は起こることでしょう。

騙す人にとっては、わかりきった、よくあるパターンの1つを適用するだけのことであっても、経験が少ない騙される側の人にとっては、悔やんでも悔やみきれない損失に苦しむ事態に直面することになることもあるでしょう。

抜け出せず身ぐるみはがされていく計画は、こうして仕組まれているものなのでしょう。飲食店で電話をしていた若い男性は、勤め人らしくスーツを着ていましたが、おそらく彼は、「騙す」商売で生計を立てること、「騙す」ことで得をすることを良しとした人生を生きることに抵抗がないのでしょう。

だからこそ、「騙す」側の人は、「騙される方が悪い」と言うのでしょう。

「欲」を持っていない人には、騙す側は近づいて入り込むことは難しいのかもしれません。それゆえに、騙す側は、「騙される方がわるい」(欲深いのがわるい)と理屈を出せるのでしょう。また、騙す側に回った人は、それまでの人生において、騙さないと生きていかれない経験をしてきた人なのかもしれないと思います。だから、「騙される方が悪い」という言葉が口をついて出るのではないでしょうか。

ある環境に置かれれば、騙すことに対する罪悪感が薄くなるということはあると思います。罪悪感の持ち様は人様々ですが、だからといって、罪悪感なく人を騙していいわけはありません。

 

「騙すつもりではなかった」「最初はそんなつもりでなかった」という場面もあるのでしょうか。騙す側の人が追い込まれて次第に不本意ながら騙さざるを得ない方向に変わっていったような印象を受ける言葉ですが、果たして、実際はどうなのでしょうか。どのような人でも、ただ悪いだけの悪人の人というのは滅多にいないと思います。その人に罪悪感が生じると、「最初は騙すつもりなどなかった」という言葉で自分自身を守るようになるのでしょうか。罪悪感から逃れたくて、自分を正当化するということは、「騙す」という場面からだけではなく、いろいろな側面でよくあることです。

 

騙されないで一生すむ人は少ないと思いますが、騙す側に回らないで一生を堅実に生きようとする人はたくさんいることでしょう。

 

時には騙す側に回らないと、損をすることもあるように思う時もあるかもしれませんが、罪悪感が十分ある人が騙す側にいってしまうと、得するつもりが結局は罪悪感に苦しむことになったり、大切にしていた信用を失ったり、全体的にかえって損することになるものではないでしょうか。

大難にあわず小難ですむためには、正義感の他、罪悪感も必要なものに思えてきます。

 

私は、おおむね、ある意味罪悪感は誰のためにもならず何も生み出さないと思っておりますが、ひょっとして罪悪感こそが、悪いことを悪いこととする正義感を醸成する源になっているのかもしれない。そう考えると、罪悪感そのものには活躍の場はないものの、人間が欲に翻弄されないためには、いくらかの罪悪感があることは、歯止めになるのかもしれないです。ただし、罪悪感ゆえにいろいろな言い訳を思い付き、物事を誤魔化すようになる懸念もあり、罪悪感が持つそれらの魔術にとらわれないよう、罪悪感については十分な注意が必要だと思います。

 

下の娘に、飲食店での「勤め人(騙している感じの)」の話をしたところ、漫画の「カイジ」についておしえてくれました。

『カイジ』という青年が借金をして様々な経験をする漫画があることは知っていましたが、読んだことはありません。娘が、その漫画の1シーンをおしえてくれて、お金の怖さ、人間の怖さについて、たちまちイメージがわいてきました。

このような漫画は、人生訓になると思われます。

「カイジ」の映画が始まるそうで、娘が「一緒に映画を見に行こう」と誘います。

行って見てみたい気はするのですが。

でも私には、この種の映画は怖いように感じられます。

お金と人間の命のどちらが重いのか、を突き詰めるところがあるように思われるからでしょうか。

人間の怖さを思い知ることになるからでしょうか。お金の力に圧倒される思いがするからでしょうか。

 

怖いもの見たさで見るには、ちょっと、私は過度な怖がりなのかもしれないと思います。

「漫画も読んでみたら」と娘にすすめられましたが、ちょっと・・・

 

皆さんは、「カイジ」の漫画を読んだことがありますか? 映画に行かれる方はおられますか?

 

私は行けたら映画に行ってみたいと思います。

 

カズシン株式会社

代表取締役 山内和美